あおしまを歩こう
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■折生迫エリア
ここでは折生迫エリアの散策スポットを紹介しています。下記の項目をクリックするとそれぞれのページに移動します。
城山公園 青島漁港
まちなみ散策… 鵜戸街道を中心としたエリア / 港町の雰囲気を味わうエリア
白浜オートキャンプ場・白浜海水浴場 日之御碕観音寺
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まちなみ散策-鵜戸街道を中心としたエリア
小さな石像たちと出会う道
●旧鵜戸神宮往還(うどじんぐうおうかん)
道の歴史って魅力的ですね。特にその道が、昔から人々に利用され続けている道だとなおさらです。
青島駅東口から右に折れ、県道377号と日南線に挟まれた道が旧鵜戸(うど)街道で江戸時代は「鵜戸神宮往還」といい、宮崎市中村から城ヶ崎、赤江、南方、郡司分、熊野、折生迫と海岸づたいを南下し、七浦七峠を越えて鵜戸に続いていました。
道幅は車2台がすり違える程度ですが、明治の中頃までは主要な道路でした。
宮崎地方には昔から、結婚した男女が夫婦そろって鵜戸神宮に参詣する慣習がありました。帰り道に鈴のついた馬を夫が引いて帰る様子が「シャンシャン馬」道中として、広く知られています。昔は交通機関がまったくなかったので、徒歩で1日目に折生迫か内海で一泊し、翌日陸路で七浦七峠を越えて鵜戸神宮に参拝して一泊し、3日目にまた折生迫か内海で一泊する3泊4日の旅だったということです。
この道は相当古くから利用されていたようで、内海峠は要衝として近くに峠城が築かれていました。応永30年(1423)島津久豊が内海に上陸し、峠城をとり、木花の車坂城を攻略した時の道といわれています。
町の雰囲気 落ち着いた雰囲気に包まれた町
シャンシャン馬 シャンシャン馬(宮崎神宮大祭)
歴史のロマンを感じながら歩く
車の往来の激しいバイパスから一歩入っただけで、まるで別世界。ほどほどの広さの道の両側には適度に樹木が残り、緑の生け垣とマッチしていて落ち着いた雰囲気を醸し出しています。手入れされた庭を眺めながら歩くだけでも楽しいのに、道の両側に様々な表情の石仏が点々と配されていて、その分得した気分になります。木陰に隠れるように鎮座している石仏も綺麗に管理されていて、必ず花が供されているのもすがすがしく、おもわず小さな顔をのぞき込んでしまいます。
石像 石像
石像 石像
石像 石像
種田山頭火も宿泊しました
青島駅東口から旧鵜戸神宮往還を進み、10分ほど歩くと右手に龍福寺、その奥に厳泉寺が見えてきます。明治はじめにおこった廃仏毀釈の思想で全国の寺が壊されるなどの騒動がおこり、ここ折生迫でも厳泉寺以外の寺は全廃となりました。龍福寺と青島地域センターの間を抜け、急な坂道を下りしばらく歩くと三叉路になり正面にお稲荷さん、右手に戸高商店があります。この戸高商店は現在は自販機だけの営業になっていますが、旧「角屋」で「種田山頭火」の泊まった宿として知られています。
「種田山頭火」は旅と酒と句作に生きた漂泊の俳人で、その漂泊の人生と型にとらわれない自由律の俳句は、没後60年たつ現在も多くの人々の心をひきつけています。
「種田山頭火」は、宮崎神宮や生目神社を巡り青島にやってきました。以下に山頭火の『行乞記』で、角屋に泊まった部分を抜粋します。(青空文庫より)

九月三十日 秋晴申分なし、折生迫、角屋(旅館・中)

いよ/\出立した、市街を後にして田園に踏み入つて、何となくホツとした気持になる、山が水が、そして友が私を慰めいたはり救ひ助けてくれる。
こゝまで四里の道すがら行乞したが、すつかり労れてしまつた、おまけにボクチンに泊りそこなつて(あのボクチンのマダムは何といふ無智無愛嬌だつたらう)旅館に泊つた、一室一燈を占有して、のんびりと読んだり書いたりする、この安らかさは、二十銭三十銭には代へられない、此宿はかなり広い家だが、お客さんとしては私一人だ、主人公も家内もみな好人物だけれど、不景気風に吹きまくられてゐるらしい。
青島を見物した、檳榔樹が何となく弱々しく、そして浜万年青がいかにも生々してゐたのが印象として残つてゐる、島の井戸――青島神社境内――の水を飲んだが、塩気らしいものが感じられなかつた――その水の味もまた忘れえぬものである。
久しぶりに海を見た、果もない大洋のかなたから押し寄せて砕けて、白い波を眺めるのも悪くなかつた(宮崎の宿では毎夜波音が枕にまで響いた、私は海の動揺よりも山の閑寂を愛するやうになつてゐる)。
今日、途上で見たり聞いたり思ひついたりしたことを書きつけておかう、昔の客馬車をそのまゝ荷馬車にして老人が町から村へといろ/\の雑貨を運んでゐた、また草原で休んでゐると、年とつたおかみさんがやつてきて、占い(ウラカタ)はしないかといふ、また、或る家で、うつくしいキジ猫二匹を見た、撫でゝやりたいやうな衝動を感じた。
今日、求めた草鞋は(此辺にはあまり草鞋を売つてゐない)よかつた、草鞋がしつくりと足についた気分は、私のやうな旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変らない、心も軽く身も軽く歩いて、心おきのない、情のあたゝかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。
いはゞ草鞋は時代錯誤的な履物である、そこに時代錯誤的な実益と趣味とが隠されてゐる。
このあたりの山も海もうつくしい、水も悪くない、ほんの少しの塩分を含んでゐるらしい、私のやうな他郷のものにはそれが解るけれど、地の人々には解らないさうだ、生れてから飲みなれた水の味はあまり飲みなれて解らないものらしい、これも興味のある事実である。
夜おそくなつて、国勢調査員がやつてきて、いろ/\訊ねた、先回の国勢調査は味取でうけた、次回の時には何処で受けるか、或は墓の下か、いや、墓なぞは建てゝくれる人もあるまいし、建てゝ貰ひたい望みもないから、野末の土くれの一片となつてしまつてゐるだらうか、いや/\まだ/\業が尽きないらしいから、どこかでやつぱり思ひ悩んでゐるだらう。
元坊にあげたハガキに、――とにかく俳句(それが古くても新しくても)といふものはやつぱり夏爐冬扇ですね、またそれで十分ぢやありませんか、直接其場の仕事に役立たないところに俳句のよさがあるのではないでせうか、私共はあまり考へないでその時その時の感動を句として表現したいと思ひます。  

夕日まぶしい銅像を仰ぐ
涸れはてゝ沼底の藻草となつてしまつて
波の音たえずしてふる郷遠し
波音遠くなり近くなり余命いくばくぞ
お茶を下さる真黒な手で
青島即事
・白浪おしよせてくる虫の声

旧角屋
「種田山頭火」の泊まった旧角屋
青島村 青島村
「旧角屋(戸高商店)」の前にお稲荷さんがあり、その反対の道路側に「青島村道路元標」が立っています。
青島地域は、鎌倉時代初期(1197)から明治9年(1876)まで、679年間は加江田村の一部でした。
明治22年に折生迫村と内海村が合併し青島村が誕生しました。さらに昭和26年に宮崎市と合併した歴史があります。
軽便鉄道(けいべんてつどう)
青島駅東口から旧鵜戸神宮往還を進み、青島小学校の手前に青島軽便鉄道橋跡が残っています。
青島軽便鉄道は、大正2年(1913)から昭和37年(1962)まで約50年間南宮崎駅〜内海港の約20kmを海沿いに結び、地域の足として重要な役割を果たしました。この鉄道のマッチ箱みたいな蒸気機関車は、日本で初めて走った蒸気機関車「弁慶号」によく似ているということで、県外からの観光客に大変珍しがれたというです。
軽便鉄道
煉瓦の橋桁が懐かしい鉄道橋跡
角屋から旧鵜戸神宮往還に分かれ、突浪橋へ
50〜60mほど歩いて左折し急な坂道を下り突浪橋に向かいます。坂道を下ったあたりは昔は船荷の集荷所があったとのことで、確かに突浪川の景観は昔なつかしい雰囲気に包まれていて、思わずホッとします。狭い空間を出たとたんに、突浪橋から河口までの青く広々とした風景が目に飛び込んできて、新鮮な驚きに出会うことでしょう。
坂道 石像
突波川
サクラの名所づくり
ルートからはずれますが、JR日南線を渡り青島公園墓地の山裾を回り込むようにして青島バイパス高架下を通り、しばらく細い道を歩くと「祗園桜森」が現れます。現在は幼木ですが約100本の桜の木が植栽されていて、将来は桜の名所として市民の憩いの場となることを目指しています。
サクラの幼木 サクラの名所づくり
ソメイヨシノ ヤマザクラ オオシマザクラ
ソメイヨシノ ヤマザクラ オオシマザクラ
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